8、かいじゅうたちのいるところ

8、かいじゅうたちのいるところ

【一言コメント】
かいじゅうたちが普通に会話しているシーンというのは、人間のように普通にしてればしてるほどシュールだ。一歩引いて観るとその歪さが「普通」の映画でない一点だけは評価できる。そして俺は超絶な原作ファン。

【批評】
原作が原作なだけに、それと比較して観た観客がほとんどだろう。創る側も、そういう意識で創らざる得なかっただろう。少なくとも自分は、原作の大ファンだからこそわざわざ劇場まで観に行って、鑑賞中つねに、原作をどう膨らませているか、つまるところどう尺を伸ばすかばかり気にしていた。そうだ、観る前から、尺のことを心配していた。だって原作は、わかりやすく教訓的な何かを教えてくれたり、物語の起伏でもってマックスの成長を描いたりしていない、それこそが優れている点なのだ。何かメッセージがダーンとでっかくあるのなら、それを映画的により説得力のあるような膨らませ方をすればいいのだが、これはそうはいかないはずだ、と。どこで時間をかせぐのか、と。

冒頭の――マックスが船に乗るまでを冒頭と呼ぼう――シーンは、原作にもあるマックスの暴君性を忠実に描きつつ、暴君が故の孤独を、等身大の子どもで描いた。ここは非常によくできている。時間かせぎとしても良い。原作で描かれて無かったけれど、実際にはマックスにはこういう現実もあるだろうという、原作掘り下げ型の時間稼ぎ。

かいじゅうたちのいる島に着いてすぐ、冒頭の掘り下げででてきた「暴君の孤独」が、この映画の主題であるという風に言われる。なるほど。異世界に来て、問題が提示されて、現実世界に帰ったときには何かが解決されていて、という成長物語パターンでいくのだな、と。これは原作を解釈する上でも、ありえない「読み」ではない。そうも読める。

マックスの抱える問題は「理由無き暴虐」と「理解されない孤独」なのだというのは、マックス=キャロルの形をとって提示される。と同時に、この島の抱える問題が、「なぜかみんなで仲良くできない」ことで、それは「いつからか、なってしまった」ものだと言われる。

ここから、この映画の奇怪さでもある人間関係ならぬ、かいじゅう関係の描写へと移る。基本的にはかいじゅう関係の問題は、現実世界の人間関係の問題を凝縮した、もっと言えば子どもたちが遊んでるときに起こる「あるある」的な、描かれ方をする。

この映画の第一の失敗は、マックス=キャロルが暴君としてかいじゅう関係にトラブルを巻き起こすわけだが、関係性のリアルさに重きを置くあまり、他のキャラのかいじゅうっぷりを描いてしまっていることだ。ジュディスの後宮の悪女のような感じであるとか、KWが友人を連れてくるKYさとか、ジュディスがアイラを従え派閥を起こすとか、アイラがジュディスを助長してるとか。「かいじゅう」とはつまり、「幼さ」「未熟さ」の比喩なわけだが、子どもたちの遊ぶ野生の風景をリアルに描いてしまったことで、皆かいじゅうなのだ、皆かいじゅうだから問題が起こるのだと言ってしまっている。それはつまり、「暴君問題」は本質的な問題じゃないよ、君=マックス=キャロルが悪いんじゃなくて、みんな「かいじゅう」だから、子どもだから、問題は避けられないよ、と言ってしまっているってことだ。

ちょっと緊張感のある子どもたちの日常系ドラマ=かいじゅう関係の関係性を動力源とした車輪は、日々刻々と変化し、新たな局面を迎える。キャロルとマックスの友情の問題だ。レットイットビー、なすがままに物語は転がってしまってる。島を離れるマックス。最後に一応は、邂逅するマックスとキャロル。でもそれって当然じゃん、マックス=キャロルだっつてんだから。

この映画の第二の失敗は、転がる石の如くかいじゅう関係を描いた末に、問題をすり替えたことだ。

マックス=キャロルの暴君ゆえの孤独を解決すること、島の抱える問題「みんなで仲良くしたいけどできない」「キャロルめんどくせー」「そんなつもりないのに変わっていく関係」を解決すること。これが、この映画が、原作の袴を借りつつ袂をわかちつつやろうとした、自身に課した課題だったはずだ。別れのシークエンスで、マックスが手を貸すことで、暴君キャロルが皆に愛される王になり王道楽土を築く、というようなことをするはずだったのではないのか。いや、なんならマックスは手を貸さなくてもいい。偽者の王だとばれて気まずい感じになってたし。マックスが帰ると聞いたキャロルが、マックスとの綺麗な仲直りはできないものの、影でみんなを束ねてちゃんと送り出そうとリーダーシップを発揮するとか。こうすれば、キャロル=マックスだから、現実での「暴君の孤独」問題解決の可能性を示唆しつつ、「ただなんとなく帰る」原作の非・成長物語感とも共存できる。これだろ完全に。

この映画の終わり方がズルい。自分で出した問題を解かないという無茶苦茶なことをしながら、原作よろしくの暴君性・かいじゅう性を否定も肯定もしない終わり方を踏襲している。原作の大大大ファンの俺なんかは、一瞬、「あー成長物語じゃないんだー偉い偉い」と、原作の感動を思い出して気持ちよくなったりしたじゃないか。投げるなスパイク!刺さったら危ないだろ!

かいじゅうとしての子どもを否定も肯定もしない原作。だがそこに潜む孤独やヴァイオレンスを描こうとした前半。闇雲に転がった中盤から後半。結局原作だよりのラスト。……成長描きたいならちゃんと描けバカ!ドゥ・ザ・ライト・シングだろ!(それはスパイク・リー

最後にほめるとしたら、マックスの俳優、マックス・レコーズ。上手いし可愛い。そう、可愛い。食べちゃいたい。