4、母なる証明 注意ネタバレあり

4、母なる証明

【感想】
 前評判に違わない最高の映画だった。伏線のはりめぐらせ方、見る者を手のひらで転がすようにイマジネーションを操る演出、エンディング、とにかく最高。社会派ドラマになるのかならないのか、みたいな部分で一番推測させられ弄ばれた。普通に考えれば、かなり歪な、散漫な映画ではあるだろう。恐ろしいほど無駄は無いが、あっちこっちに向かう(かのように見える)映画だ。あと、伏線と言うよりも「含み」的な演出が、クストリッツァに似ている。つまり素晴らしいってこと。「アンダーグラウンド」で、ある登場人物がマッチかなんかで教会のミニチュアを作って新郎新婦にプレゼントして、鐘も付いてるんだぜチリンチリンなんてしてみせる→そいつは最後、教会の鐘の紐で首つって死んでゴーンゴーン的な。この「含み」には物語上の意味は無いけれど映画的演出の妙が凝縮されてる。映画監督はこれができるかできないかで天才か否かが決まると僕は思ってる。ポン・ジュノは天才。


【考察】
 ここからはネタバレを含む。

 この映画でポン・ジュノは、人間の「生き方」の話をしていない。どう生きるべきかというような話を。善悪、倫理の話をしない。(だからこそぶっ飛んでると言えるのだが。)したがって、「良い人間」「悪い人間」のようなものも存在しないように思う。「母」は最後、「踊るアホウ」になって証明終了するわけだが、それだって、息子を守るために一人戦うだとかそのために人を殺してしまうだとか、よその「息子」がかわりに冤罪で捕まるだとかいうことの善悪を超えてしまっている。「韓国の母」キム・ヘジャが演じることで生まれた名も無き「母」が、すべてを超えて(“乗り越える”とか言ってしまうとちょっとニュアンスが違う)、これからも母であるために忘れていく。そこには「良き母」なんてわかりやすいものはいない。

 気になったのは、トジュン(息子=ウォンビン)が、五歳の時の記憶が戻り「母」を責めるシーン、と、殺された女子高生がケータイを見ながら独白する(伝聞調の回想)シーン。トジュンは自分の手で自分の右目を隠しながら。女子高生のほうは、ケータイとかぶり隠れる形で、つまりカメラアングルによって、画的に。
 片目が塞がれている、という類似。
 この二人は、加害者/被害者であるということのほかに、親によって現在の境遇にたたされた、宿命に愚弄された者同士でもある。そしてこのそれぞれの場面で、それを恨む。恨むことと、片目が塞がれること。

 「恨む」と言えば、女子高生の葬式に乗り込んだ「母」は、遺族に、「うちの息子を恨んだら許さない」と言う。だって本当はやってないんだから、と。いや、たぶん実際にやっていたとわかってもこのセリフは変わらない。恨むことは許さない。

 「目」と言えば、息子の、たぶん5歳の頃の、写真。「母」はそれを引っ張りだしてきて写真屋の女に、補正と拡大現像を頼む。写真には、折れた痕が入っていて、トジュンの可愛い鹿のような目が台無しになってしまっている。それをPCで修正してもらう。

 そうだ、トジュンの目は鹿のように可愛らしく、それは「母」ゆずりの「母」そっくりの目だった。目に入れても痛くないほど可愛い息子の可愛い目。母そっくりの目。

 「母」は、トジュンの犯した罪の恐ろしい真実を告げる廃品回収業の男を殺害した際、狂ったようにバールのようなものを振りおろし、飛び散る血しぶきが目に入り、「はっ」と我に返る。そしてさらなるパニック。息子そっくりに、息子のケータイパカパカそっくりにキョドる。

 なんだか妙なかたちで連想ゲーム的に、わかったようなわからないような妙な思考を誘うのが「含み」ある映画の魅力だ。まぁそれはともかく確実にポン・ジュノは何かを言おうとしている。善悪ではない何かを。「目」とはなんだ、「恨み」は許されざるものなのか。そういえば、どことなくひっかかるシーンがまだある。写真屋の女は、写真の目を修正するのを見て「母」が「そんなこともできるのか」と驚く場面で、以前、被害者の女子高生が客として来ていたことを思い出す。頬に傷のある友達と一緒に来ていたという大事なことを思い出す。フォトショ女は、自分で言った「これぐらいは基本」という言葉にデジャヴュを感じる。あ、これ前も言ったことある、って。捜査の重要な手がかりが手に入るこのシーン、きっかけとなるこのセリフ「これくらいは基本」、ちょっと変だ。「これくらいは基本」なんてそれくらいいつなんどき何度言ってもおかしくないセリフだろうに。いや、脚本に粗があると言いたいのではない。やはり「含み」を感じるのだ。

 五歳の時殺されそうになったのを憶えてると言いながら片目を隠すトジュン。五歳の頃の写真の目には傷が入っている。それを修正するのは「これくらいは基本」。

 完全に「良い人間」が出てこないのと同じレベルで、欠陥・欠乏・欠点を持つ人間が描かれるがこの映画はそれを否定的には描かない。もちろん、それどころか、社会的に「欠陥・欠乏・欠点」と見なされる知的「障害」者を取りまく現実を、鋭敏な社会的問題意識で取り上げている。社会的弱者が、偶然の悲劇と必然の不条理に対してあまりに「弱い」ということに真剣に向き合っている。しかし、なんと言ってもこの映画は、正義を描いてはいない。欠陥・欠乏の「弱さ」を守る正義は、まったくもって主題ではない。

 もう一度整理したい。この映画は、「弱い」息子の無実を証明する母の話、ではない。息子の無実を証明するためには善悪すらも逸脱する母の話、でもない。息子は現に罪を犯しているにもかかわらず貫きとおされる母の愛、まだ不十分だ。重要なのは母も罪を犯しているということ。もっと重要なのは、それすら忘れるということだ。

 この映画は、罪を犯した息子を救うために自らも罪を犯してしまい、それでも生きていくために、そんなもんぜーんぶ忘れてアホになって踊る母の話だ。そうだったそうだった。とんでもねぇな。

 この町はおかしい的なセリフがあったはずだ。死体があった場所から見る町、死体を注視する町全体が狂ってて、誰も信用してはならない。皆、欠陥や欠乏や欠点を抱えているのだから。偶然言ってはならない相手に「バカ」と言ってしまったり、偶然投げた石が頭に当たって死んでしまったり、偶然嫌なものを見てしまったり、偶然火事現場に立ち寄ったり、偶然犯行現場に落とした証拠品を息子につきつけられたりするのだから。偶然が偶然のままに私たちを絶望のふちに追いやるのだから。自分で自分を守れるほど、強くないのだから。

 だから人間の生き方に「良い」も「悪い」も無い。あるのはただ、偶然だけ。それを恨むことだけは許されない。なんとかして、それを忘れるしたかかさこそが必要だ。アホみたいに踊ることだ。いやいやもちろん、忘れることなんてできないし、踊ったからと言ってどうなるわけでもない。もちろん。でも、これくらいは基本。取り繕ってくんだよ。

 恐ろしい映画。